可変式ダンベルとの対話から筋肉至上主義者が誕生する

筋肉至上主義を影で支配するダンベルという怪物

筋肉至上主義の勝利ともいえる「筋トレ」への関心は、近年ますます勢いを増している状況にあります。

男性のみならず女性からも強い関心を集めている「筋トレ」は、その勢いを見る限り、現代の日本においてはすでに覇権を握っているのだといっても過言ではないように思われます。

存在の根拠が見出しにくい時代に、「筋肉」という実にわかりやすい目にわかる成果は、ある人にとっては根拠や指標になりうるものであるのかもしれません。

「生きるための活力」を、可視化されたマッスルの躍動とともに全身に漲らせてくれる可能性がある「筋トレ」は、今後、ますます注目を集めていくであろうことはまず間違いありません。

ダンベルを利用して行う「自宅でも可能な筋トレ」は、そんな、一億総筋肉トレーニング時代ともいえる筋肉至上主義国家(筋肉原理主義国家であるとか、あるいは、筋肉千年王国でもよいでしょう)の到来に備えて、「ジム通いによる筋トレ」と並ぶか、それ以上の注目を集めている筋トレであるといえるでしょう。

美しい理想の筋肉を予感させるダンベルの存在感

美しい理想の筋肉を予感させるダンベルの存在感

手元にダンベルさえあれば、筋肉至上主義国家で生き抜くためのマッスルを、自宅にいながらにして、日々の労働などと並行して「合間の時間」を利用して獲得できるというのですから、「美しい筋肉の獲得」に乗り遅れてはならない筋肉至上主義国家の未来の国民たちがダンベルに飛びつかないという手はありません。

筋肉は万人に開かれており、ダンベルを手に筋トレを開始するタイミングは、いままさに、この瞬間に到来しているのです。

しかし、ダンベルを購入したあと、実際に「ダンベルによる筋トレが継続できている」だとか「ダンベルによる筋トレによって理想とする筋肉を獲得できた」という人がどの程度いるのか、また、その数は多いのかどうか、という話になると、「どうも、そういうわけでもない」というなかなか厳しい現実が見えてくるのも一方では事実です。

むしろ、ダンベルを利用した部屋でできる筋トレを志したはいいものの、様々な事情で「継続」が困難になり、筋トレを「挫折」してしまった人の方が多いのではないかと思います。

筋肉至上主義国家で生きていくための切符であるところのダンベルを一度は手にしていながらも、そのダンベルの「重み」を早々に手放してしまい、部屋の片隅でダンベルが埃をかぶりながら邪魔な過去の遺物、置物として鎮座している、という「理想に破れた室内」の景色は容易に想像ができます。

「美しい筋肉の獲得」という指標が燦然と輝く希望であった日々は「挫折」とともに過ぎゆき、熱く燃えたぎるようであった「美しい筋肉」という理想の炎は消え去り、貧弱なだらしない肉体と諦めきった怠惰な精神という失意の塵灰だけが残されてその筋肉が燃え上がるということは二度とない、というような末路は、ブームにのって「筋トレ」を志す初心者にまつわるありふれた「あるある」のようなものであるといえるでしょう。

筋肉は辛く厳しい反復と継続の賜物である

筋肉というのは、画力トレーニングや楽器の練習に似ている側面があり、「継続」「反復」がなければしっかりと身につかない(および、衰えていく)、また、そのトレーニングの効果が出てくるまでには必ず「ある程度の時間」がかかる、という特徴を持っています。

その「継続」「反復」の過程は、思わず投げ出したくなるような実に地味なもので、基本的には「辛く厳しい」ものです。

もし、「筋トレ」について「辛くも厳しくもない、簡単に筋肉をつけることができる」という意味の言葉が書かれている文章を読んだ場合は、眉に唾をつけて疑って読む必要があるでしょう。

これといった努力もせずに筋肉が簡単につくということはまずありません。筋肉は、ある程度の「辛く厳しい反復」を全面的に受け入れて「継続」することによってのみはじめて獲得されるものであり、決して「楽」なものではないのです。

「筋トレ」というものに取り組むための最低条件として、「筋トレ」の根本的な「辛さや厳しさ」から眼をそむけない態度を持つ、というものが挙げられると思います。

この「筋トレ」に対する基本的な心構えなり覚悟がない状態で、「ダンベルを買っておけばおのずと筋肉もつくだろう」というような甘い考えでダンベルなどを購入した場合、高い確率で挫折を味わうことになり、購入したダンベルを持て余すというバッドエンドが待っていることでしょう。

そのかわり、「筋トレ」に対するこの基本的な心構えをしっかりと持っているのであれば、購入したダンベルを利用し、自宅にいながらにして地道な「継続」「反復」による筋トレを実践することが可能となり、美しい筋肉を獲得するための道をゆっくりと確実に歩き始める、その第一歩を踏み出すことができるはずです。

筋トレの辛さや厳しさは人の想像力を上回る

とはいえ、「筋トレは辛く厳しいものだ」と頭で理解していてある程度は覚悟していたつもりではいても、それでもなお、実際の「辛さ」「厳しさ」は、つねに「筋トレ初心者であり未経験者」が想像しているもの以上であると考えたほうがいいでしょう。

「筋トレは辛くて厳しいとはわかっていた。しかし、まさかこれほどだとは思っていなかった」、これが「筋トレ初心者」の初期段階におけるもう一つの「挫折」のポイントでもあるわけです。

では、こういった実践における初期の「挫折」を乗り越えるにはどうしたらいいのか、というと、当たり前のように聞こえるかもしれませんが、「実際に経験して身をもって知ってしまった辛さや厳しさを改めて受け入れる」という方法しかありません。

そして、その「現実の辛さや厳しさ」を感じた地点を目指して改めてゼロから再出発し、「辛さや厳しさ」を感じた地点に向かって何度も這うようにして辿り着き、そこへ辿り着くプロセスなり到達それ自体が「辛さや厳しさ」として感じられなくなるまで「反復」「継続」を徹底的に行います。

「筋トレ」における「継続」「反復」というのは、現実的な難関として次から次へと現れてくる「辛さや厳しさ」を、その段階ごとに全面的に受け入れて、何度も再出発しながらやり直して乗り越えていく、という不屈の精神を保つこと、その精神的な態度の「継続」「反復」でもあります。

自分が「もう無理だ。ここが限界だ」と感じるポイントをしっかりと見定めたら、急がず焦らず引き返し、その「限界地点」をゆっくりと時間をかけて少しずつ確実に攻略する、という日々の継続をただひたすらに繰り返し、「筋トレの可能領域」を地道に広げていくのが「筋トレの基本」であり「すべて」でもあるわけです。

筋トレの辛さや厳しさは果てしなく続くものである

「筋トレの基本」であると同時に「すべて」でもある「辛く厳しいことを受け入れ、その限界地点を時間をかけて乗り越えていく」という営みは、「筋トレ」を続けていく限り、最後の最後まで続きます。「筋トレ」にまつわる「辛く厳しいこと」は、「筋トレ」をやめない限り、いつまでも終わりません。

このように見ていきますと、筋トレというのは「辛くて厳しいだけ」という風にも思われてきます。そして、私は、あえて「そうである」と断言したいと考えています。筋トレは「辛くて厳しいだけ」の行為であり、見返りとして「筋肉」が獲得できますが、決してそれ以上でもそれ以下でもありません。

では、そんな「辛くて厳しいだけ」の行為を、なぜ「筋トレ」を継続する人たちはやめようとしないのでしょうか。多くの筋トレ初心者のように「辛くて厳しいから」といって止めてしまわないのはなぜなのでしょうか。

その問いに対する答えはあまりにも明白であり、言うまでもないことのように聞こえるかもしれませんが、「とにかく筋肉を獲得したいから」です。「辛く厳しいだけの筋トレ」「継続」する人たちが、「個人的に筋肉が好き」であり、「個人的に筋肉に何かしらの価値を感じているから」です。

それはあくまで「筋トレをする人が好き」「筋トレをする人が価値を感じている」のであり、「すべての人が筋肉好き」であり「すべての人にとって筋肉に価値がある」というような必要はまったくありません。

筋肉は役に立つのかという愚問について

筋肉は役に立つのかという愚問について

そんな「筋トレ」をしている人間にたいして、筋肉に理解がない人間から頻繁に投げかけられる質問のなかには「そんなに身体を鍛えて、筋肉をつけて一体どうするのか?」というようなものがあります。

このような質問を投げかける心情の背景には「筋肉は役に立つのか?もし役に立つことがあるのであればぜひとも教えてほしい」という意図が隠されていると思います。しかし、このような意図が隠された質問は、はっきり言って愚問であると言わざるをえません。

なぜなら、筋肉それ自体にはなんの価値もなく、筋肉というものを「役に立つかどうか」という功利的な基準だけで見る必要はまるでないからです。

もちろん、「役に立つ筋肉」がないわけではありません。たとえば「肉体労働」をするために必要な筋肉であるとか、スポーツ選手であれば、その特定のスポーツで高い能力を発揮するために必要な筋肉などは、いわゆる必要な場面において「役に立つ筋肉」になりうることもあるでしょう。

また、「筋トレ」を始めようとしている「筋トレ初心者」の指導者、つまり「筋トレのインストラクター」になることができる、であるとか、「筋トレをしたい人の立場にたったジムの経営ができる」というものは確かに考えられます。

これは、「筋肉」「筋肉」のためになら多少は役に立つことができるという一例であるといえるでしょう。

しかし、「ダンベルを使って自宅でする筋トレ」に代表されるような、近年ブームになっている「純粋に筋肉を獲得するための筋トレ」で獲得される筋肉というのは、「役に立つ筋肉」ではない場合(だからといって、まるで役に立たないということもないのですが)がほとんどなのですし、また、そうである必要性もない筋肉、いわば「筋肉のための筋肉」であるわけです。

「筋トレ」というものは「筋肉が好きだから」「筋肉に価値があるから」ということ以外にはこれといって取り組む理由がない営みであると私は考えています。そして、だからこそ「筋トレ」にはやる意味があるとも思います。

筋肉は役に立つという言説はまやかしである

もちろん、「身につけた筋肉が役に立つかどうか」という見地から「筋トレをする理由」を見つけていこう、証明しようとする言説はあります。

たとえば、「筋肉があればモテる。モテたいなら筋トレをしたほうがよい」というような言説は世の中に溢れかえっていますが、これは、「役に立つかどうか」という系列の言説の、まさに代表的なものであるといえるでしょう。

これに関しては「筋肉があってモテる人もいればモテない人もいる。人の好みは千差万別である」としか言いようがありませんし、こういった「モテるから筋肉は役に立つ」というような言説は、近年かなり数を増しつつある「ただただ筋トレをしてめきめき筋肉をつけている女性」のモチベーションをまったく説明していません。彼女たちがモテるために筋トレをしているとは到底思えません。

また「筋肉があったほうが服が似合う」という言説もありますが、これは体型に応じて似合う服を選べばいいだけであり、センスの問題でしかありません。

「筋肉があればユニクロで十分」というような意見は確かに説得力があるように見えますが、「筋肉がある上でユニクロ以外の服を選べばさらにいいだけ」の話ですし、「筋肉質ではないが筋肉質の人間よりもはるかにファッションが決まっている」なんていう実例は、男女問わず、枚挙にいとまがないほど見出すことができます。

「筋肉があると喧嘩を売られない」というような意見もあります。確かに、圧倒的な迫力を持つ筋肉を見てすくみあがるタイプの脆弱な人は多いでしょうけれども、その一方で「路上などで好敵手となりうる喧嘩相手を探している」というようなタイプもおり、そういう人間であれば、「筋肉」の持ち主を狙うということもありえます。

また、力道山が暴力団員に刺されて死んだことを思い出してみてください。あの力道山を持ってしても筋肉で刃物は防げなかった、つまり、力道山の筋肉は刃物を前にして「役に立たなかった」のです。

功利的な価値基準を超えて筋肉を見つめる

功利的な価値基準を超えて筋肉を見つめる

「役に立つかどうかという価値基準」が実はそれほど筋肉とは関係がないという点を見据えたうえで改めて「筋トレ」というものを考えていきますと、おそらく、次のような二つの考え方が発生することになるのではないかと思います。

その二つの考えのうち、一方の考え方は「挫折」に、もう一方の考え方は「継続」に繋がっています。

ひとつ目の「挫折」に繋がっている考え方は、「こんなに辛くて厳しいことを繰り返して、それを乗り越えたとしても、しょせんは役に立つとも立たないともいえない筋肉がただつくだけでしかないのに、この苦行をいつまで続けていけばいいのか」というものです。

もう一方の、「継続」に繋がっている考え方は、「この辛くて厳しいことを乗り越えたことで、役に立つかどうかは関係なく、自分にとっては何よりも重要な筋肉という得難いものを手に入れた。自分はこれからも筋肉を獲得しつづけるし、筋肉の衰弱を日々の筋トレによってなんとしても食い止めるであろう」というものです。

「そんなに身体を鍛えて、筋肉をつけて一体どうするのか?」という愚問を投げかけられたとき、もし前者の考え方に傾いている場合、さまざまなとってつけたような「筋トレをする理由」を早口で説明したあと(それは多くは、下手すると無意味かもしれない筋トレをしている自分に言い聞かせ納得させるような口調になるでしょう)、自分がなぜ筋肉を鍛えているのかが次第にわからなくなり、やがて、筋トレの継続が困難になります。

ですが、後者の考え方に傾いている場合、「自分はただただ純粋に筋肉が好きなので。筋肉をつけることで何か人生にとって役に立つような何かを得ようとしているのではなく、まず何よりも筋肉が得たいだけなので」と涼しい顔で即答し、その愚問を愚問として一笑に付してから、おもむろにダンベルを手に取り、質問者の目の前でダンベルをリズミカルに上下させてみせさえすることでしょう。

筋肉を鍛える本当の理由は筋肉の獲得以外にはない

「筋トレ」というものが現在のような活況をあらわして狂熱的なブームになる以前から淡々と「筋トレ」をしていた人たちというのは、「筋肉」というものに対する「愛情」であるとか、もっといえば「信仰心」のようなものに支えられながら身体を鍛えてきた人たちであったと思います。

「辛く厳しい、ときには無意味な苦行にも思われるような鍛錬」を前にして、彼らが「挫折」をしなかったのは、ひとえに「何のために身体を鍛えているのか」という問いに対する答えとして、彼らが「筋肉の獲得」というあまりにもシンプルな答えだけを持っていたからです。

彼らが、「筋肉」以外の理由であるとか、一見するとその先に進んでいるようで実は後退しているだけでしかないような「では、何のために筋肉を獲得したいのか?」というような愚問の発生をことごとく回避し、ただ純粋にひたすら「筋肉」だけを見据えていたからにほかなりません。

前述した二つの考え方において、こういった人たちが後者の立場をとってきたであろうことはまず疑いようがありません。

「愛情」「信仰心」のようなものに突き動かされて凄まじい純度で邁進している人間にとって、そのような邁進が理解できない人から投げかけられる「愚問」は、それを問いかけられた瞬間にいったい何を聞かれているのかまるでわからないような「闘っている土俵が根本的に違う質問」でしかないでしょう。

それはたとえば、「登山」を趣味(あるいはライフワーク)にしている人に向けて「どうして命の危険を晒してまで無理して難易度が高い山に登るんですか?もし登頂に成功したとして、それで何か役に立つことでもあるんですか?」と尋ねるようなものです。

「登山」を愛する人は、愕然としつつ「この人には何を言っても伝わることはないだろう」という諦めの溜息とともに「山を登るという行為それ自体が最大の目的なのです。そのプロセスすべてに自分の『生』があり、登山を通してより苛烈に『生』を求めているというだけで、登頂に成功したからといって役に立つということは何もありません。ただ次に登るべき山があり、その登山の計画があるだけです」と答えるほかないでしょう。

筋トレを始める動機と、動機からの飛躍について

筋トレを始める動機と、動機からの飛躍について

もちろん、筋トレを始める動機は、いわゆる「不純なもの」であっても構わないでしょう。始める動機、「筋トレ」に興味を持つきっかけ自体は、「筋肉が好きだから」である必要はまったくないと思います。

「筋肉が欲しいから」「筋肉が好きだから」という理由以外の、多くの理由のうちの一つとして語られるような「筋肉をつければモテる」というようなものから筋トレを始めること自体には何も問題はありません。

「筋肉なんてそんなに好きじゃないけど、なんとなく流行ってるし、やらないといけないみたいな空気だし……」くらいの気持ちで、流されるように筋トレを始めたとしても、それを誰かに糾弾されるいわれはありません。むしろ、どんなきっかけであれ、「筋トレ」を開始したこと、それ自体が喜ばしく感じられるほどです。

問題は、当初の「動機」だけでは「筋トレの継続」を維持していくということが、「辛く厳しい筋トレ」が進行し、その「辛さ」「厳しさ」が増していくにあたって、「困難」になってしまう瞬間が訪れるということです。

どのような動機であれともかく開始されてしまった「筋トレ」という「辛くて厳しい時間」を、「困難」に打ち勝ち、「挫折」させることなくひたすら「継続」させていくためには、ある地点からの「飛躍」がどうしても必要となります。

この「飛躍」というのは、ともすると本来の「動機」を捨て去ることにもなりかねない危険な「飛躍」でもあるのですが、この「飛躍」なしに「筋トレ」を継続するのは正直なところ難しいと言わざるを得ません。では、その「飛躍」とは、一体なにか。

「自分は本当に筋肉を欲しているのだろうか」と思い悩み始めるフェイズに到達してからの「筋トレ」の辛く厳しい時間のなかで、「自分は確かに筋肉を欲している、筋肉を愛している、いや、それどころか、筋肉を信じてさえいる!」という考えに移行すること。これが「筋トレ」における「飛躍」です。

筋肉は訓練によって肉体上に可視化される観念である

「筋トレ」は、「筋肉への愛を自覚する」という「飛躍」を経験してしまうと「やりすぎ」に、「飛躍」のまえで踏みとどまると「挫折」へと繋がる可能性があります。

「筋トレ」は、ある段階を超えると「飛躍」なしの「継続」が難しくなるのですが、かといって「飛躍」をしたらしたで、「筋トレ」に歯止めがきかなくなるため、バランスの見極めがどんどん難しくなります。

「やりすぎなければいいのでは。筋トレというのを適度な運動を楽しめばよいのでは」と言える冷静さは、おそらく「飛躍」手前の、ある意味ではもっとも理想的ともいえる段階にいる人にのみ可能な冷静さであるでしょう。

というのも、「飛躍」を経て「筋肉」「愛」を感じてしまったが最後、「愛の結晶である筋肉を獲得できるなら、いけるところまでいく」しかなくなるのですし、「中途半端なトレーニングでは筋肉に対する愛を実感することができず、『愛の対象』である筋肉も衰えていき、『愛せない筋肉』になってしまう」からです。

「飛躍」は、「筋トレ」における「継続」の鍵なのですが、「筋肉への愛」を獲得し、「辛く厳しいこと」「辛く厳しいのは確かだが、それどころではないもの」に変わってしまうと、「筋トレ」「筋肉」という成果を通した「快楽」の領域に突入し、やがて「中毒症状」を起こします。

「飛躍」を通過し、「筋肉への愛や信仰心」を獲得し、「筋肉のための筋トレ」という領域に足をすすめた人間を、私は個人的に、筋肉至上主義者と呼んでいます。

「筋肉」に対する「愛」「信仰心」の高まりは、神秘主義者が「神」という「絶対者」を通して体験することになるであろう法悦へと筋肉至上主義者を誘います。

神秘主義者にとっての「神」などの「絶対者」という目に見えない観念は、筋肉至上主義者たちにとっては「筋肉」として具現化されます。「筋肉」というのは、自分の肉体の上に可視化される観念であるといえるでしょう。

動機からの「飛躍」が当初の動機を捨て去る瞬間について

「飛躍」は、本来の「動機」を捨て去ることにもなりかねないと書きましたが、たとえば「モテ」という「動機」は、筋肉至上主義者の「筋肉への愛」の前でわかりやすく砕け散ることになります。

というのも、「この程度まで鍛えておけばモテる」というような指標とされているいわゆる「細マッチョ」程度の肉体では、筋肉至上主義者の膨れ上がった「筋肉愛」を満たすことができなくなるからです。

それは「細マッチョにまで鍛えてみたけれど、結局モテなかったじゃないか!」という怒りからくるものであるのか、「モテることよりも、筋肉が好きになってしまった。筋肉にモテたい……」という感情の芽生えなのかはわかりませんが、筋肉至上主義者たちの「筋トレ」は、「筋肉」というものを「モテ」の範囲を超えてしまう地点にまで鍛え上げようと志すのですし、実際、鍛え上げてしまいます。

ここで「飛躍」を経験せず、「こんなに鍛え上げてしまって、本当にモテるのだろうか(一向にモテる気配がないが……)」と考えられるタイプは、「筋肉が好きだから」という「理由」ではなく、まだ「モテたいから」という「理由」が残っているため、不毛な「筋トレ」「継続」をやめ、モテるための別の方法をとることになるでしょう。

飛躍後の筋トレは理性を超えた領域に突入する

「健康のため」「筋トレ」を始めた場合はどうでしょうか。「筋トレ」「適度な運動」というレベルで続けるならば、確かに「筋トレ」「多少は健康によいもの」です。

しかし、「筋トレ」というのは、基本的には「筋肉にダメージを与えて筋繊維を切断して破壊してから回復させる」というプロセスを何度もとるのですし、あるラインを超えてからは「身体に悪い」ものでもあります。

「筋肉」を維持するためには酸素を送り込むために心肺に負担がかかります。また、食事量の増加によって胃腸にも悪影響があると言われています(プロテインなどを飲むのであれば、その影響はさらに考慮するべきものになるでしょう)。

もし「飛躍」を経験してしないのであれば、「筋肉愛」よりも、当初の目的である「健康」を選ぶことでしょう。しかし、一度「飛躍」を経験してしまい、「筋肉愛」を自覚してしまった場合、理性ではわかっていても、欲望が「筋トレ」をやめさせてはくれません。

「筋トレのやりすぎは身体に悪い」とわかっていても、それでもあまりに魅力的な「筋肉」の前ではそのような常識は霞んでしまうのですし、そんな魅力的な「筋肉」が自分の肉体の上にどんどん身についていくとなると、その快楽と法悦は凄まじく、「筋肉」の前で筋肉至上主義者は無力、トレーニングが激化する一方なのです。

バランスのいい筋トレを維持するのは難しい

バランスのいい筋トレを維持するのは難しい

「筋トレ」の恐ろしいところは、どんな「動機」で始めるにせよ、早々に「挫折」してしまうか、中毒者のレベルになって「継続」するか、という二極化に陥りがちなところで、その中間地点の「ちょうどいいバランス」を維持しながらの「継続」が難しい、というところにあるでしょう。

中毒者などというと聞こえが悪いですが、筋肉至上主義者はそれを理解したうえで「それでも筋肉がいい」と思って筋肉を鍛えているのですし、なんといっても、「快楽に忠実」であり「楽しそうである」というのがポイントです。

「役に立つか立たないか」ではすでに判断できず、「モテ」のラインは遥かにオーバーし、「健康」を害するレベルにまで達する「筋肉」を、それでも「筋トレ」によって獲得しようとしている人たちは、「筋トレ中毒」であることを思いっきり楽しんでいるのです。ここは、極めて重要です。

先程書いたような「モテ」「健康」などの「人間的」な価値基準にとどまり、「飛躍」も経験しておらず、「筋肉」への「愛」「信仰心」がない人間が、「筋肉」を愛してしまった人に対して「モテないし身体にも悪いから筋トレやめたら?」だとか「なんで鍛えてるの?」などというのは実に簡単です。

ですが、そんな助言は「筋トレ」「継続」し、ただ一心に、自分の肉体の上に純度と密度の高い凝縮された「筋肉」を獲得しようとしている筋肉至上主義者からすると「そんなことは知ったことではない」のですし「他人から何かを言われる筋合いもない」のです。

筋トレはエクストリームになりうる趣味である

これは「筋トレ」に限った話ではなく、趣味全般すべてに共通することです。

「趣味」というのは、それを突き詰めていくと「一般的な基準で了解できるようなライン」を平気で超えていきます。

そして、その「趣味」に突き進んでいくディープな趣味人の姿は、無趣味な人間に対して「未知の恐怖」を与える傾向があります。趣味人は、基本的には「異物」なのです。

多くの場合、(ライトではない)趣味人というのは、その趣味をひた隠しにしながら楽しむものです。趣味人が神秘主義者に近づいていくのは、説明不可能な領域にあるものを言葉で説明することの不毛さを知っており、自分のやらなければならないことのための時間をそんな不毛な説明で削るわけにはいかないからです。

「筋トレ」を趣味として突き進んでしまった人間、筋肉至上主義者の難しいところは、「隠しながらできる趣味」ではないということに尽きるでしょう。

「筋肉」がつきすぎてしまったその人の肉体は、他人の眼から隠すことができないものになっているからです。筋肉至上主義者に対して「そんなに鍛えてどうするの?」という質問が投げかけられがちなのは、「行き過ぎた快楽の成果」が可視化されているからではないでしょうか。

しかし、こういった不理解、愚問との遭遇は、筋トレという趣味を選んでしまった以上、宿命であるととらえて引き受けなければならないものであるでしょう。

それでも筋トレを続けるのかという段階ごとの決断

「筋トレ」は、「役に立つという基準が通用しない」だけでなく、中毒になってしまった場合「モテ」「健康」などに繋がらないどころかそれを破壊する領域にまで進んでしまう可能性が高く、また、「行き過ぎた趣味」になってしまったならば、不理解にさらされる「筋トレ」が原因で人間関係が壊れることさえあるものです。

「筋トレ」は、「あなたはそれがわかってもなお筋トレをしますか?」という問いが投げかけられるそれぞれの地点から、筋トレを「継続」するかどうかを改めて考え、自分の今後を決定していかなければなりません。

「筋トレ」には様々な「挫折」があるということは、これまで書いてきた通りです。その「挫折」は、大きく三つに分けることができるでしょう。

「辛くて厳しい」から、早々に「挫折」する(初心者)。どんどん「辛く厳しい」になっていくことの「果てしなさ」に目眩を起こすようになって「挫折」する(中級者一歩手前)。「辛さや厳しさ」がもはや辛くも厳しくもなく「快楽」にさえなってきたが「これ以上続けると引き返せない」から「挫折」する(上級者一歩手前)。

これらの、三段階に別れた「挫折」のさきに、「筋肉が好きすぎる。鍛え続ける。利益はいらない。筋肉だけほしい」という継続(上級者)であるところの、筋肉至上主義者の世界が待っています。そこから先は、延々と終わらない「筋肉」との対話があるのみです。

筋肉至上主義者は筋トレによって連帯し団結する

筋肉至上主義者と呼べる領域まで来てしまった場合、「筋肉」があるならば、あらゆる人間から背を向けられてもぜんぜん構わない、という地点にまで思考が進んでいるのではないかと思います。むしろ、「筋肉」に理解のない友人など、切ってしまっても構わないとさえ考え始めるでしょう。

しかし、筋肉至上主義者に「孤独」「孤立」はありません。筋肉至上主義者は、「筋肉」を愛している同好の士たちとの交流は盛んになるのですし、なにより自分が鍛え上げた「筋肉」が自身の肉体という最も近い場所に寄り添ってくれています。そして、手を伸ばせば、そこにはいつだってダンベルがあるのです。

筋肉至上主義者は、筋肉を鍛え上げることによって、世界中に存在する他の筋肉至上主義者たちと「連帯」し、「団結」しているのです。

筋肉至上主義者たちが「筋肉」を通して団結する筋肉至上主義国家の国旗は、真っ赤な布地の左上にダンベルを握りしめた拳をあらわす黄色い図画が象徴的に配置されたデザインになること間違いなしです。

俗世間のくだらない基準や考え方に慮って、筋トレのレベルを下げる必要はありません。そして、時間とともに衰えていく肉体は、少しずつ「筋トレができない身体」に近づいています。あなたの「筋肉」にはもはや一刻の猶予もありません。ダンベルを手に取り、いますぐ「筋トレ」という「運動」を開始し、トレーニングを過激化させていきましょう。

筋トレを志す人間にとってダンベルはともだちである

筋トレを志す人間にとってダンベルはともだちである

かつて、サッカー漫画『キャプテン翼』の主人公である大空翼が「ボールはともだち」といって物議を醸し、彼の発言は現在も「笑い」を誘い続けているのですが、筋肉至上主義者は、この大空翼の発言を笑うことはおそらくないでしょう。

なぜなら、筋肉至上主義者にとって、「ダンベルはともだち」であるからです。

大空翼は、「対象」は違えども、筋肉至上主義者たちが自分たちのパートナーであるところの「ダンベル」に対して抱くのと同じような感覚を、「サッカーボール」に抱いているだけなのですから、筋肉至上主義者は、むしろ大空翼に対して共感さえ抱くことになるのではないかと思います。

大空翼といえば、「ワールドユース編」で公開された彼が住むサッカー狂いの部屋もまた、軽薄な読者に「ボールはともだち」と同様の強烈な衝撃を与えたものでした。

部屋を埋め尽くすサッカーグッズ、様々なスポーツブランドのシールがいたるところに貼られている壁や家具、サッカーボール柄の掛け布団、マラドーナのポスター、本棚に収納されたサッカーボール。確かに、ここまでくると相当なレベルの「サッカー狂」の部屋であることは疑いようがありません。

ところが、筋肉至上主義者、とくに自宅で筋トレができる環境であるところの「ホームジム」を整えているタイプの筋肉至上主義者にとって、彼の「狂気のサッカー部屋」は、「他人事」ではなく、そもそも「狂気」とすら感じられないのではないでしょうか。

大空翼は自分の部屋を見て「おれん家って感じだ!」という感想を叫んだものでしたが、多くの筋肉至上主義は、他人の整えられた「ホームジム」の画像を見たら「ああ、“おれん家”も本来はこうであるべきだよなあ」という感想を持つことになるはずです。

可変式ダンベルはコンパクトなホームジムである

とはいえ、すべての筋肉至上主義者が「ホームジム」を手に入れられるわけではありません。「ホームジム」はローマのように「一日にしてならないもの」であるといえるでしょう。

筋肉至上主義者たるもの、自宅に筋トレに特化したホームジムがあるというのは、趣味人としては「あがり」といってもいい環境でしょう。

ですが、「ホームジム」を作るにはどうしても相当の資金(とはいえ、工夫すれば十万円程度ですむようですが)が必要ですし、また「自分はこれからも筋トレでいくのだ」という肝を据えた覚悟も必要となります。

また、資金や気合は十分であっても家庭の事情や住宅環境によってなくなく諦めなければならない、という筋肉至上主義者もいることでしょう。

しかし、もし「ホームジム」を整えられないとしても、筋肉至上主義者は決してへこたれる必要はないのですし、手に入らない環境に嘆いている暇があるなら筋トレをする、というのが筋肉至上主義者のとるべき態度ですから、悲嘆に暮れている場合でもありません。

かつて、マリー・アントワネットは、かつて「パンがないのならお菓子を食べればいいじゃない」と言ってのけたものですが、現代の筋肉至上主義者たちならば「『ホームジム』がないのなら『可変式ダンベル』を手に入れればいいじゃない」という言葉を呟き、呟くばかりでなく、実際に「可変式ダンベル」をその手中に収めることになるでしょう。

「可変式ダンベル」は、「ダンベル筋トレの正しい方法」で利用さえすれば、ホームジムを作るよりもはるかに経済的に、そして、狭いスペースのなかで、充実したホームジムに匹敵する筋トレ効果を発揮することが可能なアイテムなのです。

固定式ダンベルと可変式ダンベルの違い

固定式ダンベルと可変式ダンベルの違い

ダンベルは、筋トレ初心者から筋トレ玄人まで、およそ筋トレを志す人間にとっては欠かせない、必携の筋トレアイテムであり、筋トレの相棒であるといえます。

そのダンベルのなかでも、「ジム通いによる筋トレ」よりも「自宅での筋トレ」をメインに考えている筋肉至上主義者であれば、「固定式ダンベル」よりも、「可変式ダンベル」こそが筋トレのために重宝するダンベルということになるでしょう。

「可変式ダンベル」は、付属のプレートウェイトの調整によって、ダンベルの重量を「自分好み」に変化させられるダンベル、「固定式ダンベル」は、一つのダンベルが定められた固定された重量を持っているダンベルです。

「固定式ダンベル」で筋トレをする場合、重量の数値に応じてそれぞれに異なるダンベルを用意しなければならないので、満足のいく筋トレを行うためには大量のダンベルを購入しなければならず、「自宅の筋トレ」で選択するとなると、経済的にも、スペース的にもデメリットしかありません。

「固定式ダンベル」は、「ジム通いによる筋トレ」に特化したダンベルであるといえます。トレーニングジムには、大抵の場合だいたい5キロ単位で細かく固定式ダンベルが用意されており、トレーニング内容にあわせた数値のダンベルを自由自在に選べる環境が整っています。

「固定式ダンベルが網羅的に用意されている」というトレーニングジムとまったく同じ環境をもし自宅にこしらえるとなると、下手すると「ホームジム」を作る以上の困難に見舞われることになるのではないかと思われます。

そこで「可変式ダンベル」が登場するというわけです。「可変式ダンベル」は、一本のシャフトと複数のプレートの組み合わせによって、コンパクトに、一つのダンベルのなかに小宇宙を作り出すようにして、「固定式ダンベルがずらりと大量に並んだ棚」を凝縮してみせる極めて機能的なスグレモノです。

可変式ダンベルの経済的メリットと空間的メリット

販売されている「可変式ダンベル」によって細かい違いはありますが、「可変式ダンベル」はだいたい「5キロから40キロ」の幅で重量を調整することが可能です。

40キロから50キロあたりの重量の「固定式ダンベル」の相場は、片手一本分で、おおよそ「三万円から五万円」ほどなっています。重量の減少にともなって価格も落ちていきますが、「固定式ダンベル」「5キロから40キロ」までくまなく揃えるとなると、相当の出費を覚悟しなければならないでしょう。

「可変式ダンベル」のセット(両手分)の価格の相場は、おおまかに見ていきますと、「固定式ダンベル」の片手分の値段に相当します。

価格という点だけを考慮しても、「自宅での筋トレ」のために「可変式ダンベル」を購入するという選択がいかに合理的であるかは明らかなのですが、加えて、「省スペース」という観点から見ても、「可変式ダンベル」「自宅での筋トレ」に特化したダンベルであるということがよくわかります。

「可変式ダンベル」の片手分が所有するスペースは、目安としては、「テンキー付きのパソコンのキーボード」程度の横幅に過ぎません。

「30センチ×45センチ」ほどのサイズ(40キロセットの片手分を乗せることができます)の車輪付きの台座をホームセンターなどで購入しておけば、「可変式ダンベル」を移動させて置き場所を変更させる場合(日常的な掃除や、模様替えの際など)にかなり便利で、管理が楽になります。

また、賃貸マンションなどで「可変式ダンベル」を使う場合は、ダンベルで床を傷つけないように、耐衝撃性のあるマットなどをトレーニングスペースに敷くのを忘れないようにしましょう。

「可変式ダンベル」が部屋のなかで占めることになるスペースはこの車輪付き台座二台分ほどの面積にすぎません。この「可変式ダンベル」のためのわずかな保管場所と、身体を横たえたり腕を広げたりできる程度のトレーニングスペースを確保するだけで、「自宅での筋トレ」は、かなり満足度の高い内容と幅広さを獲得することになるでしょう。

初心者が落ちやすい自宅筋トレの落とし穴

初心者が落ちやすい自宅筋トレの落とし穴

それでは、さっそくダンベルを使ったトレーニングの方法をご紹介といきたいところなのですが、その前に、「自宅での筋トレ」を開始する前の「最後の注意点」として、ぜひともおさえておきたいことを書いておかなければなりません。

その「最後の注意点」とは何かというと、これから後々紹介することになるトレーニング方法を、「あくまで文字情報でしかない」という前提の上で読んでいただきたいということです。

筋トレにおいては、文字情報だけでトレーニングの方法を知って実践するのと、実際に身体を使って指導者に細かい修正や注意を受けながらトレーニングの方法を知っていくのとでは、その方法の習得の速度や正確さ、トレーニング全体の効率などにかなりの違いが出ることがあります。

自分のやり方があっているかどうか、あっているとしてそれがしっかりとできているのかどうか、という判断は、「筋トレの初心者」「自分だけ」でトレーニングをしているうちは客観的に行うことができません。

それに加えて、特に「初心者」の段階ではそうなのですが、トレーニングの「辛さと厳しさ」に対する「妥協」「甘え」が出て、中途半端であまり効果がない筋トレに終始してしまうことがあります。

あるいは、逆に「妥協してはいけない」「甘えてはいけない」という気持ちが強くなりすぎて、「やめどころ」がわからないままに「オーバーワーク」になって身体を壊してしまうという人もいます。

こういったことを避けるために、プロの目線、あるいは、プロではなくても上級者の目線と、それらの目線からの助言などは、トレーニングの初期段階においては必須なのではないかと私は考えています。

中途半端でもなく過剰でもないトレーニングを正確に行っている、ということを、しっかりと自己判断できるようにする、「プロや上級者の目線」「自分の目線」として獲得していくというプロセスを怠った場合、筋トレの成果はやや悲惨なものになってしまう可能性のほうが高いと言わざるをえません。

自宅の筋トレ前にジム通いも考慮にいれよう

筋トレというのは、身体の隅々にまつわる総合的な知識と、自分の身体との頻繁な対話による繊細な配慮のもとにはじめて効果を持つものであるということを知らなければなりません。「プロテインを飲んで鶏肉を食べてただがむしゃらに一心不乱に鍛えていれば理想の筋肉がいとも簡単に手に入る」というわけではないのです。

これから筋トレを始めようとしていて、もし、運動経験などがほとんどなく、「ストレッチの方法と重要性」などを少しも知らないというレベルの初心者であるならば、「自宅の筋トレ」から始めるのではなく、「筋トレにおける基礎中の基礎」を、トレーニングジムの講師から学ぶことをオススメします。

どのような段取りで、どの程度の訓練量で筋トレを行えばよいのか、ということに関しては、やはり、しっかりとした知識と経験を持つ「プロ」の意見に従うに越したことはありません。

筋トレというのは、「筋肉トレーニングをしている時間」だけが筋トレなのではありません。

むしろ、筋トレ直前直後のケアはもちろんのこと、呼吸法なり食事の調整、日々の過ごし方、どの段階で次のトレーニングに進むかという判断など、「実際には筋トレをしていない時間」も実はつねに筋トレを行っているのだ、というような意識が必要であるといえます。

いきなり「可変式ダンベル」で、独学で「自宅での筋トレ」を開始することももちろん可能ではあるのですが、素人の判断と生兵法で筋トレをした場合、誤った筋トレになってしまい、バランスよく的確に全身を鍛えられないというような事態に陥ることがあります。

バランスが悪い鍛錬、くらいですめばよいのですが、最悪の場合、筋肉がつかないどころではなく、筋トレが原因で怪我などをしてしまい、筋トレの継続が難しい身体になってしまうことなども考えられます。

節約だけを考えて結果的に大損ということにならないためにも、トレーニングの「コツ」「基礎知識」をしっかりとつかむまでは、「自宅での筋トレ」のための準備として「ジム通いの筋トレ」を多少は経験しておいたほうがよいでしょう。

もちろん、「インターネットだけで集めた文字情報だけで適切な筋トレのメニューを組んで正確なトレーニングができる」という絶大な自信がある場合は、その限りではありません。

まずは筋トレをするための身体を調整する

まずは筋トレをするための身体を調整する

ファッションにおいて「服を買いに行く服がない」という状態がありますが、筋トレにも似たような「筋トレをするための身体が整っていない」という状態があります。

「いますぐ筋トレがしたいんだ!」というはやる気持ちがあるのは理解できますが、万全を期するのであれば、筋トレを開始するまえに、まずは「呼吸」「フォーム」「柔軟性」の三つの調整は最低限行わなければならない「筋トレのための準備」であると私は考えています。

整った「呼吸」「フォーム」「柔軟性」は、長期的なストレッチを継続することで獲得することができるものです。

首のストレッチ、腕と手首のストレッチ、肩のストレッチ、背中のストレッチ、腰のストレッチ、太ももや股関節などのストレッチ、アキレス腱とふくらはぎのストレッチなど、筋肉をつけることになる箇所のストレッチを丁寧に一日一時間ほど継続的に行いますと、呼吸も整い、姿勢も正され、ほどよい柔軟性が獲得されます。

目的はあくまで「筋トレ」ですから、この「筋トレをするための身体」の準備段階で、身体を柔らかくしすぎる必要はありません。ひとまずの目標としては、前屈をして床やつま先に手が届く程度の柔軟性の獲得を目指しましょう。

むしろ、あまり身体を柔らかくしすぎますと、関節の可動範囲が広がりすぎて「筋トレの負荷で怪我をしやすい身体」になってしまいますから、この程度の「柔軟性」があれば、「筋トレをするための身体」としては十分です。「筋トレをするための身体」としては「ほどほどのしなやかさ」が理想です。

ストレッチは、筋を伸ばす際に「息を吐きながら行う」のがポイントなのですが、これは筋トレにおける呼吸法である「力を込めるときに息を吐き、脱力時に息を吸う」において応用できるものですから、この「筋トレをするための身体」の準備段階でしっかりと覚えておきましょう。

適量のストレッチとともに、日々、姿勢を律する心構えを忘れないようにしてください。気を抜いて猫背になってしまったり、バランスの悪い立ち方をしたりしないような日々の心がけが、後々の正しいフォームでの筋トレに繋がっているということを忘れないでください。

筋トレ前のウォームアップがパフォーマンスを向上させる

「筋トレをするための身体」がある程度整ってきましたら、いよいよ、お待ちかねの筋トレに突入です。

しかし、かといって、何の前触れもなくいきなりダンベルに飛びつくわけにはいきません。筋トレがしたくてウズウズする気持ちは理解できますが、筋トレをするにあたっては、直前のウォームアップを欠かさないようにしましょう。

ウォームアップは「五分程度のゆるやかな有酸素運動(ウォーキング、ジョギングなど)」からの「ダイナミックストレッチ」という順番で行うようにしましょう。

前述したように「柔らかすぎる身体」は怪我の原因になります。ですから、筋トレ直前のウォームアップでは、「ゆっくりと時間をかけて全身の筋肉を伸ばしていくスタティックストレッチ」ではなく、「ほどほどのしなやかさ」を全身に与えて筋肉を目覚めさせるような「ダイナミックストレッチ」を行うのが望ましいでしょう。

「ダイナミックストレッチ」は文字で説明するのが極めて難しいので、実演して教えてくれる指導者などがいない場合は、動画サイトなどで「ダイナミックストレッチ」を検索して正しいやり方をしっかり勉強して臨んでください。

ウォームアップの段階では、自分の身体のコンディションを見極めることを忘れないようにしましょう。ウォームアップ中や終了後に、身体に痛みがあったり違和感があらわれた場合は、筋トレの内容を普段より抑えめにするか、大事をとって筋トレそれ自体を中止するようにしたほうがよいでしょう。

「日課だから絶対にやらなければいけない」という考え方は危険です。コンディションが悪いときは「日課」を破ってでも無理を避けましょう。

ウォームアップを経て、痛みや違和感などがなければ、筋トレのための「身体」はひとまず準備が整ったということになります。ウォームアップをしっかりと行うことで、筋トレの効果には大きな違いがあらわれるはずです。

その上で、筋トレの一セット目は「身体を慣らす」ことを目的とした「ウォームアップの一貫/延長である」と考えてください。軽めの負荷の一セット目の筋トレを終えたときが、ウォームアップの完了ということになるでしょう。

ダンベルトレーニングの一覧とセット数

ダンベルを使った筋トレは、「腕筋」「胸筋」「背筋」「脚筋」「大殿筋(尻の筋肉)」「腹筋」など、筋肉の部位によってトレーニングの方法が違います。

ダンベルを使った筋トレは、筋肉ごとに以下の方法が挙げられます。ストレッチのときと同様、文字列の説明よりも、プロの指導を受けるか、動画などでトレーニング方法の確認をするとよいでしょう。

「上腕二頭筋」
アームカール、ダンベルカール
「上腕三頭筋」
フレンチプレス、トライセプスキックバック
「前腕筋」
リストカール、ハンマーカール
「大胸筋」
ダンベルベンチプレス、インクラインダンベルベンチプレス、ダンベルフライ、インクラインダンベルフライ、デクラインダンベルベンチプレス、デクラインダンベルフライ、フロアプレス
「広背筋・大円筋」
ワンハンドローイング
「僧帽筋・脊柱起立筋」
ダンベルデッドリフト
「僧帽筋のみ」
シュラッグ
「脚筋肉全体」
ダンベルスクワット、ブルガリアンスクワット、ランジ
「大殿筋」
スティッフレッグドデッドリフト
「腹直筋」
ダンベルクランチ

トレーニングは基本的に「10回」「1セット」であり、一箇所「3セット」のトレーニングを行うのが理想です。

しかし、もちろん、トレーニング中に痛みや違和感が発生し、それに耐えられないときは、「3セット」の完遂を諦めて、すぐにトレーニングを中断してください。

トレーニングにあわせて適切なダンベルを選択しよう

ダンベルを使ったトレーニングにおいては、鍛える筋肉の箇所の大きさにあわせて、使用するダンベルの重量が変化します。

たとえば、「脚」などの大きな筋肉のトレーニングで使うダンベルで、「上腕二頭筋」などの腕の小さな筋肉のトレーニングを行った場合、重すぎて筋肉を壊すことがあるので、鍛える部位ごとに重量を考慮したうえでダンベルを選びましょう。

ダンベルを選ぶ際にもっとも重要なのは「無理をしない」ということです。「見栄をはるために自分の筋トレの段階を超えた重量のダンベル」を選ぶというような行為は、筋トレにおいては最も避けなければなりません。

「自分の限界を超えているダンベル」でトレーニングをした場合、フォームが崩れたままトレーニングをすることになるため、筋トレにならないどころか、むしろ身体が壊れるか、筋肉を失うかのどちらかです。

ダンベルを使ったトレーニングで何よりも重要なのは、「自分の能力と、鍛えるべき筋肉に合致した重さのダンベル」「適切なフォーム」を保ちながら「適切な方法」で丁寧にトレーニングを行うことです。

トレーニングの反復と継続による「筋肉」の獲得によって、使用できるダンベルの重さは自ずとあがっていきます。重要なのは数値よりも「筋肉」です。焦らず、他人の「筋肉」やトレーニング内容などを意識せずに、地道な筋トレで理想の「筋肉」を獲得することに集中しましょう。

トレーニングが身についたら自宅筋トレに移行しよう

トレーニングが身についたら自宅筋トレに移行しよう

上述したトレーニングは、一部の例外を除いて、「可変式ダンベル」さえあれば、すべて「自宅の筋トレ」で行うことが可能なものです。

一部の例外とは、ダンベルベンチプレス、インクラインダンベルベンチプレス、ダンベルフライ、インクラインダンベルフライ、デクラインダンベルベンチプレス、デクラインダンベルフライ、ワンハンドローイングなどの、「トレーニングベンチ」を必要とするトレーニングです。

もちろん、「例外」とはいっても、「トレーニングベンチ」を購入し、自宅のトレーニングスペースに導入すれば、これらのトレーニングも「自宅で可能なダンベルトレーニング」に早変わりします。

もしトレーニングベンチ(一万円ほどで入手可能です)を手に入れる余裕があるならば、「可変式ダンベル」との組み合わせによって、ほとんど「ホームジム」と変わらないトレーニングが可能な環境が手に入りますから、筋トレの段階を見て導入を考えてみるのもよいでしょう。

「ジム通いによるトレーニング」「適切なフォーム」「適切な方法」「丁寧な鍛錬」を、他者のアドバイスなどが必要じゃないレベルで身につき、習慣化しましたら、いよいよ「自宅での筋トレ」のための準備は万全であり、機が熟した状態であるといえます。

石橋を叩いて渡るようなやり方に感じられるかもしれませんが、機が熟し、トレーニングにも慣れてきて継続が「当たり前」になった状態で「可変式ダンベル」を購入した場合、「可変式ダンベル」が部屋の片隅で不要な「置物」になるというような悲惨な事態、「ダンベルの持ち腐れ」に陥る危機はまず間違いなく回避できるだろうと思います。

筋トレの基本を身に着けた上で開始する「自宅の筋トレ」は、「可変式ダンベル」という最高のパートナーと自分の間でのみ交わされる終わらない対話による「筋肉の探求」の様相を呈することになるでしょう。

そして、この「筋肉の探求」から、一人の筋肉至上主義者が、ひっそりと密室のなかで誕生するのです。