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島文化

[島造り神話]

“抜神達彼ノ島ニ集リ又先ノ如ク海中ノ処々ニ石ヲ置テ七日七夜ニ十ノ島ヲ焼キ出シ玉イテ・・・”
“第二ノ島ヲバ島々ノ中程ニ焼キ出シ、ソレニ神達集リ玉イテ島々ヲ焼出シ玉ウベキ詮議有シ島ナレバ神集島ト名付玉エリ”

(『三宅記』)

日本神話の時代に、父・大国主命(オオクニヌシノミコト)に“国譲り”を進言し国土を天孫・邇邇芸命(ニニギノミコト)に譲った事代主命(コトシロヌシノミコト)が、伊豆の国に渡り島々を焼き出したのが伊豆諸島のはじまりとされています。
神が集まり会議をした島であったことから、『神集島』と名づけられ、後に『神津島』になりました。
因みに、事代主のご子息であり神津島の鎮守神でもある物忌奈命神社の神額には、「集島定大明神(ヅシマサダメダイミョウジン)」という文字が書かれています。『集島』と呼ばれていた時期もあったのでしょうか。

 

[水配り伝説]

“その昔、伊豆諸島の中心である神津 島の天上山に、島々の神々が集まり会議をしました。
一番大切な会議は、生命の源である「水」をどのように分配するかでしたが、言い分がさまざまで、なかなかまとまりません。そこで次の日の朝、先着順に分けることになりました。いよいよ朝になり、一番早く着いたのは御蔵島の神様でした。御蔵島は最も多くの配分を受け、次は新島、三番目は八丈島、四番目は三宅島、五番目は大島でした。
こうして水は次々と配られ、最後に利島の神様がやってきたときには水はほとんど残っていませんでした。それを見た利島の神様は怒り、わずかに残った水に飛び込んで暴れま わりました。
この水が四方八方に飛び散り、神津島ではいたるところで水が湧き出るようになったと言われています“

 

神津島の水は美味しいと評判で、多幸湾海岸に湧き出した新鮮な『多幸湧水』は東京の名湧水57選に数えられるほど。神津島の暮らしを支えてきた豊かな水の由来がこの伝説で語られています。
なお、神々の会議が行われた天上山の一画は、『不入ガ沢(はいらないがさわ)』と呼ばれ、足を踏み入れることは禁忌とされています。

 

 

 

 

 

[阿波命/アワノミコト]

三島大社・事代主の正后。長浜に『阿波命神社』が建てられ、島民からは“長浜さま”の愛称で慕われています。
事代主の八人の后のうち最も格式の高い女神ですが、白浜の伊古奈比命が先に冠位を授けられ、激怒して天上山の大噴火(承和5年)を起こしたと言われています。「私に冠位が授けられれば、天下国郡を平安にし、産業を豊かにする」という趣旨の宣託があったことにより、伊豆国在庁官人は、阿波命・物忌奈命の二柱に正五位下という高い冠位を授けました。
神津島が豊かな漁に恵まれるのは、長浜さまが今もこの約束を守ってくれているからかもしれません。

[物忌奈命/モノイミナノミコト]

事代主と阿波命の長男で、神津島の鎮守神。前浜の『物忌奈命神社』に祀られ、島民からの愛称は“明神さま”。
神事などにあたって一定期間飲食や行動を慎み、不浄を避けることを物忌といいます。天上山の噴火を畏れた島民が物忌をして祈ったことから名づけられたのでしょうか。
『三宅記』には、「た々ない王子」と記されています。

 

 

[日向命/ヒュウガノミコト]

事代主と阿波命の次男で、物忌奈命の弟。多幸湾の『日向神社』に祀られている為、島民は多幸湾のことを“ヒュウガ”と呼ぶことがあります。
『三宅記』には「たふたい王子」、『日向神社神名帳』には「とうなへの王子」と記された文章が残っています。

 

 

 

[事代主/コトシロヌシ]

国造りを行った出雲大社・大国主の息子。三嶋大社明神。
邇邇芸命(ニニギノミコト)へ国譲りを承諾し青柴垣に引き篭もっていましたが、その後伊豆の島々を焼き出し、現在の静岡県にある『三嶋大社』に鎮座したとされています。「伊豆」の由来は、事代主が「出づ」というところから来たという説も。
託宣の神であると同時に、えびすさまとも同一視され、海の神、商業の神として信仰されています。

古文書・『上つ記(うえつふみ)』には、歌いながら釣りをしている姿が描かれています。
“沖なかの網びく海狩人 海狩人ら
勉し網曳きなすかや 海魚沢なすかや
いそしきか海魚 さよるか
勉そ励げばこそ 海魚も寄らめ
海魚い寄りこそ 勉し励ぎもしめ
これの海狩あわれ“

海にまつわる祭

[乗り初め/ノリゾメ]

時期:1月2日

神津島港に係留された漁船と陸揚げされた漁船の上で、船主が一年の安全と豊漁を祈願します。予祝行事として、大漁旗を揚げた船上から菓子・おひねり・ミカンを撒き、一本釣りの模倣をします。

 [籤祭り/クジマツリ]

時期:1月13日

明治時代、建切網漁では、アダ(漁場)を抽籤で割り当て一日交代で代わっていく方式が始まりました。この100年ほどの間に漁船の数が減ったため抽選の必要はなくなりましたが、当時の風習が引き継がれ今でも年明けにはその所作を演じています。

 

[二十五日様/ニジュウゴニチサマ]

時期:1月24日・25日

神津島に上陸された来訪神に、村内の道祖神をご案内し拝礼して回る神事。
神津島の神職二名は屋外で無言を通し、後ろを振り返ることは禁じられています。また、途中で誰かに会うと最初からやり直しをしなくてはいけません。 この二日間は島民も仕事を休んで静かに過ごし、暗くなると就寝することになっています。

 

[漁船祭/リョウセンマツリ]

時期:3,5,7,9月の時化で出漁できない日(各月10日まで)

主催は神津島船主組合。物忌奈命神社で祭式を奉仕した後、前浜港内の竜神宮に参拝します。紫陽花の葉を12枚重ねた上に、お米・ご飯・団子・刺身7切れを載せたものを献上し、海へ流します。

 

 

 

[長浜祭/ナガハママツリ]

時期:4月15日

阿波命神社の例祭で、この日は神津島の祝日。
島民は長浜から平たい石を拾い、その上に砂を積んで、鳥居に置いて参拝をします。
一説によると、石は船、砂は乗組員を表し、航海の安全を祈り感謝する意味が込められているそうです。

 

[物忌奈命神社例大祭/モノイミナノミコトジンジャレイタイサイ]

時期:7月31日~8月2日

神社境内に夜店が並び、神輿が島内を練り歩きます。祭の終盤、若人たちは海へ入り、海中で激しく神輿を揉みます。これには禊の意味が込められていると言われています。
この例大祭の中で行われる「かつお釣り神事」は国の重要無形民俗文化財。かつて、神津島では鰹節が特産品として島の暮らしを支えていたため、かつお釣りの所作を真似て神社に奉納し、豊漁を祈願するようになったそうです。
境内は漁場、観客はかつお。若手漁師が竹の船三隻で境内を駆け回り、餌代わりの菓子やおひねりを撒きます。見物客が船の周囲に群がり釣りあげたら、水揚げと入札。仲買人が現れ落札者が決まると、大漁を祝う宴が繰り広げられます。
漁師たちの勇壮な姿、賑やかで活気溢れる雰囲気は、島の名物として誇られています。

神々の集まる島

[島名の由来]

天皇が神津島を行幸された際に「『嘉ず島(かずしま)』と申されたという説、伊豆諸島の最西にあったため『上津島』となったという説、神が集まり詮議した島なので『神集島(かみあつめのしま)』と名づけたという説、『神津集島(かみづまりしま)』から『神詰(かみづめ)』と称されるようになったという説、諸説あります。現在の『神津島(こうづしま)』と呼ばれるようになったのは、そう古いことではないと思われます。

 

五色浜に転がるカラフルな玉石

[五色浜] (←写真)

紅色や白色など色とりどりの玉石が無数に転がる長浜には、『五色浜』という愛称もあります。事代主があちこちに後后を作ることに悋気した阿波命が、后たちの宝石を奪い集めたものがこの石という話で、持ち出すと神罰が下ると言われています。

 

[三味線松と太鼓松]

事代主が神津島を訪れる時、阿波命は松の上に女神たちを配し、三味線と太鼓で音を奏でさせて歓迎したのだそうです。阿波命の事代主への深い愛情が伺えます。

 

[濤響寺の阿弥陀如来]

昔々、「十五夜婆」と呼ばれる女性が夢の中でお告げを受け、多幸湾で三体の阿弥陀如来像を見つけました。濤響寺に飾られているのは、そのうちの一番大きな阿弥陀如来像だという話です。

 

神津島の南西に浮かぶ無人島、おんばせじま

[祇苗島(ただなえじま)のヘビ]

神津島の側に見える無人島・祇苗島には、巨大な島蛇が数多く棲息しています。 ある時、父親と牛草を刈りにきた娘が時化のために島に取り残され、息絶えてしまいました。しかし、「生きたい」という執念が娘の髪に宿り、その一本一本が蛇になったのだと伝えられています。

 

[恩馳島(おんばせじま)のアシカ] (写真→)

時化の時、漁師が避難して家族に無事を知らせる為にのろしをあげ、それを見た家族が思いを馳せていたことから、『恩馳島』と名づけられました。 昔はアシカが生息し、その鳴き声は島民を眠らせないほどだったそう。別名『アシカ島』とも呼ばれています。

 

 

 

 

 

 

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